阪神淡路大震災で被害を受けた公共交通機関はどうしたか?

ブログ掲載日からちょうど27年前の1995年、阪神淡路大震災が発生しました。近現代の日本において震度7を始めて観測し、その後地震や災害に関する考えが一変した出来事です。

 

都心部の神戸は甚大な被害が発生し、鉄道などの公共交通はすべてストップしました。復旧まで最大1年を要し大変な事態となったわけです。

今回はその被害によって、どのような対策を各社は行ったのかをまとめます。

 

 

 

 


播但/加古川線に全国の車両が集結。迂回ルートを作成

 JRでは六甲道駅の駅舎が崩れるなどの被害が出たために、JR神戸線が運休。姫路や加古川から播但線、加古川線を経由して和田山、福知山、谷川などからJR福知山線を通り大阪へ至る迂回ルートが定められ、この区間で多くの車両が行き交いました。

 もちろん旅客電車も被害を受けたのですが、それ以上に被害が大きいのは西日本に物資を届ける貨物列車でした。この迂回ルートにより貨物が滞りなく輸送されるようになったのです。

 

当時の加古川線と播但線は単線非電化のローカル路線仕様でした。なので加古川線だけでは線路容量が足りず、播但線を経由したルートでもう回路として設定されました。

 

臨時ダイヤを組み運行を開始しようとしますが、ディーゼル車なんてそんな余分にあるはずもなく、JR東日本の秋田・盛岡地区からディーゼル車両を貸借。JR東海や貨物が牽引車を提供し、当時新品の智頭急行HOT7000系も入線して大阪~姫路間を結ぶ快速電車として活躍しました。

 

寒い冬の時期で、福知山では雪が積もりましたが北日本の車両は問題なく走行しました。また国鉄からの分割民営化からそこまで年月が経っていなかった為、車両の性能や運行方法の教育が必要なく容易に運用をこなすことが出来たのでした。

 

JR神戸線が復旧するまでの間、今では考えられないような5~6両編成のディーゼル車がバンバンこのう回路を走っていたのです。現在はこの出来事から、加古川線と播但線の一部が電化。現在に至ります。

 

 

 

 


耐震基準の不確定さが幸運、弱い所がばらけた

JR、阪急、阪神の全線復旧が済むまでの間、この3社の定期券や回数券を持つ方に関してはどの線路を使っても良いという特例がありました。阪急は三宮ビルが倒壊したり、JRでは六甲道駅が倒壊したりと、各社被害を受けた駅や線路の箇所がバラバラだったからです。

 

これは、現代のように耐震設計の基準がゆるかったことや、線路横家屋倒壊の有無、高架線路率などが各社異なっていたからです。高架線化が進んでいた阪急や、地下区間の耐震設計基準が無かったことから神戸地下鉄や神戸高速が全線開通までに一番時間を要しました。

 

最後まで復旧しなかったのは神戸高速の大開駅です。

 

 

 

 

 


代行バスで45万人を運ぶつもりも、なかなかうまく行かない

当時の大阪神戸区間の流動数は1日45万人。この人数を阪急阪神JRの3社はそれぞれが代行バスを出すことで輸送しようとします。

 

西日本JRバスは、関係各社と連携して80台以上のバスを確保。国道2号線と山手幹線を使い、甲子園口・西ノ宮から、芦屋、摂津本山・住吉・六甲道・灘・三宮を50分程度で結ぶバスを運行させました。

 

ただ混乱や渋滞などから、乗車待ちで1時間、バスに乗って3~4時間なんてこともあり、歩くより早いといった状況になったようです。また、高速道路で山陽新幹線の新大阪~姫路間を代替するバスも、中国道の大混雑により途中で引き返したり運行を打ち切ったりするケースが頻発しました。

 

ただ、これらの路線には「バスレーン」が整備され、バス専用の車線を作る事で所要時間を縮小。これにより需要は拡大していき最大12万人のバス輸送に成功したそうです。

 

 

 

 

 


私は阪神大震災を知りません。99年生まれです。

地震に対するノウハウがない日本なんて考えられません。当時いろいろ模索して素早いスピードで復旧をしていった関西の人々はとても素晴らしいと思いました。